【炎上論0】「ごんぎつね」の始末書
論旨を乱暴にとりまとめると、
「他人があなたの意図を読み違えてしまうのは"しょうがない"し、またあなたが他人の意図を読み違えてしまうのも"しょうがない"ので、くよくよ悩むだけ時間の無駄。風呂入って早よ寝なさい」
…っていう形になるんですけど、乱暴さによって損なわれてしまうものも結構あると思うので、以下、省略せずに申し上げます。よろしくお願いいたします。
- 「ごん狐」の兵十に始末書を書かせる
- スローモーションで見る[斟酌]
- 兵十はなぜ誤ったのか?
- 兵十にそんな暇はない
- 私たちにもそんな暇はない
- 行為には[多用途性]があるって話
- きょうのお話は…
「ネット炎上」の古臭さについて
1937年に発表された太宰治の短編小説「燈籠」には、万引きに手を染めた女性の述懐として、こんな場面が描かれています。
その日の夕刊を見て、私は顔を、耳まで赤くしました。私のことが出ていたのでございます。万引にも三分の理、変質の左翼少女滔々と美辞麗句、という見出しでございました。恥辱は、それだけでございませんでした。近所の人たちは、うろうろ私の家のまわりを歩いて、私もはじめは、それがなんの意味かわかりませんでしたが、みんな私の様を覗きに来ているのだ、と気附いたときには、私はわなわな震えました。私のあの鳥渡した動作が、どんなに大事件だったのか、だんだんはっきりわかって来て、あのとき、私のうちに毒薬があれば私は気楽に呑んだことでございましょうし、ちかくに竹藪でもあれば、私は平気で中へはいっていって首を吊ったことでございましょう。二、三日のあいだ、私の家では、店をしめました。
(青空文庫:太宰治「燈籠」)
また、在野史家である礫川全次の『戦後ニッポン犯罪史』(批評社 2014)には、村ぐるみでの選挙不正を告発した少女が受けた仕打ちとして、次のような事柄が紹介されています。
事件がこれで終われば、この上野村の名前が全国に知られることはなかったであろう。しかし、この村の不正選挙事件は、別の深刻な問題へと発展してゆくのである。
それはすなわち、石川さん一家に対する、村八分事件である。
選挙からしばらくたったある日、石川さんは、路上である婦人に呼びとめられる。
「あんただってねえ、選挙違反を投書なんかしたのは。今日十何人もの人が警察によばれたんだけど、まだみんな帰ってきていないから、帰ってきたらみんなしてお礼にゆくそうだから――。」「あんたも学生なんだから、他人を罪におとしてよろこんでいることが良いことか悪いことかくらいはわかるでしょう。自分の住んでいる村の恥をかかせてさあ……。」
いじめ(村八分)のはじまりである。折しも、田植えの季節だったが、彼女の家には、近所から誰も手伝いが来なかった。一家は、朝夕のあいさつすらしてもらえなくなった。彼女の妹に対し、小中学生が「赤だ」「スパイだ」と言ってヤジった。地元の新聞は、彼女の父親の操行について書きたてた。
(批評社:礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』69頁)
また、大昔にどこかの誰かが創り上げた「マタイによる福音書」には、イエス・キリストの言行の記録として、次のような場面が描かれています。
さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。
あなたたちはやがて、
人の子が全能の神の右に座り、
天の雲に乗って来るのを見る。」
そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、 「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。
(bible.com:新共同訳「マタイによる福音書」第26章59節‐68節)
ところで、いま私が列挙いたしました《旧時代の遺物》と、現代の私たちが日常的に目にしている《ネット炎上》の間には、言わずもがな、類似性が見受けられます。
というよりも、《旧時代の遺物》と《ネット炎上》の間にある差異は、単に――
- 加害行為がネット上で行われているか否か
――という点にしかなく、両者は本質的には同じ現象なのだと考えるほうが、むしろ妥当なのかもしれません。さて、仮にそうであるとすれば、こうは考えられないでしょうか? すなわち――
- 昔の人々が考えた《旧時代の遺物》への対応策を、現代の《ネット炎上》にもそのまま応用できるのでは…?
――と。そんな素朴な疑問に納得のいく解を与えるべく、わたくし中原痒太郎は、先頃『大炎上論』という論考を制作いたしました。
総文量10万7000字弱と少し長めの文章とはなりますが、ご高覧のほど、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
なお、Kindle Unlimitedの会員様であれば――
- 「ネット炎上とは、そもそも何か?」
――という問いを徹底的に追究した論考『炎上論(小)』が無料でお読みいただけますので、どうぞ、こちらのほうからご笑覧くださいませ。